【 Vol.1 】世界の五島うどんへ
『五島うどんの御力〈みりょく〉-日本最古説を追って』(長崎新聞社刊)の著者で、元上五島町教育長の吉村政德さんと当製麺所代表の犬塚康彦が、五島うどんの由来と日本の食文化のルーツ、島の宝などをテーマに「五島うどん歴史談議」に花を咲かせました。はるか大昔と現代とを結ぶ「小さな島の大きな奇跡」。あなたも、上五島を舞台にした歴史のロマンあふれる物語に少しだけ耳を貸していただけませんか?
日本から「世界の五島うどん」をめざす=犬塚
犬塚康彦 日本列島の西の果て、上五島という小さな島でうどんづくりに励んでいる、われわれ麺職人は、「日本の五島うどん」を、いつの日か必ず「世界の五島うどん」にしようという大きな目標に向かって挑戦をつづけています。
吉村政德元教育長 上五島で暮らす人々は、小麦粉のことを「うどん粉」と言いますよね。麺職人の皆さんの日頃の努力の賜と思いますが、麺づくりの文化というものが、上五島の人々の生活に深く溶け込んでいることを物語っているのではないでしょうか。
五島うどんは古の昔からずっと、手延べという、とても手間のかかる作業にもかかわらず、それぞれの家で細々と守り継がれてきた、この紛れもない事実は、歴史学的に見ても、すごいことだと思うんですよ。
犬塚 確かに、われわれが住んでいる船崎地区では昔、あっちこっちの家にうどんを作るための小屋がありました。漁師の夫が海に出ている間に、留守を守る妻が一人でうどんを作るとかね。昔は、どこもそんな感じだったと思いますよ。五島うどんは手延べなので時間と労力が結構かかるんだけども、どこの家でも当たり前のように作っていた。この島の人にとってそれだけ、うどんは身近な食ベ物だったということだと思います。
では、本題に入りましょう。吉村さんは、昨年出版された『五島うどんの御力』という本の中で、かつて「うどん博士」と呼ばれた、國學院大學の加藤有次博士が平成14年3月19日付の長崎新聞紙上で発表された、とても興味深い学説を紹介されています。その新聞は、今でも大切に保存してますよ=写真=。
そのコラムの中で、加藤博士は「五島こそが日本最古のうどん発祥地」と言われていますが、われわれ、この島の製麺業関係者にとって、どれほど大きな励みになったことか。
【「五島こそうどんの古里」 國學院大學教授(当時) 加藤有次】
五島列島は奈良時代から遣唐使が中国から渡航する際の休息地であったため、恐らく遣唐使によって索餅(註)の製法が五島に伝わったと考えられる。したがって、索餅のわが国最初の上陸地は五島ということになり、五島こそが日本最古のうどん発祥地といえる。
その後、この製法が近畿地方から日本各地に伝わり、太く、細く、長い麺を作り、食べる上で各地の風土や知恵によっていろいろな工夫が施された。うどんは、それを媒体として千年以上の日本の歴史やさまざまな郷土の食文化を生み出した。そして今日、日本人の代表的な食文化の一つとして形成されるに至ったが、その原点は五島であり、五島こそがうどんの古里である。
(平成14年3月19日付「長崎新聞」)
編集者註:「索餅」について、加藤教授は同じコラムの中で次のように解説している。
索餅とはいかなるものなのか。これは奈良時代・天平期の東大寺の正倉院文書に記録が残っている。最初は麦縄や麦といわれたものが、次第に索餅と呼ばれるようになった。索とは太い縄という意味で、小麦粉を餅(もち)状にして、あたかも縄をなうがごとく、細く麺(めん)にする。この製法はまさに五島うどんそのもの。やがて、この製法が石川県の輪島そうめん、富山県の氷見うどん、秋田県の稲庭うどんなどに伝わったと考えられる。
- 中略 -
この索餅から索麺、そうめんへと変化し日本のめん文化の歴史を担ってきたといえる。
犬塚 博士は、大陸から最初に伝わった五島うどんの製法が、日本全国に伝播していったと書かれています。
今から20年以上も前のことなんですが、秋田の稲庭うどんの7代目が、地元のテレビクルーと一緒に、私どもの製麺所を取材で訪れたことがあります。
五島うどんの一連の製麺工程を撮影しながら、その7代目が「稲庭うどんの作り方とそっくりで驚いた。稲庭うどんは五島から流れてきたんだ」と、はっきりと言われた。吉村さんの著書を読んで、なるほどそういうことかと、納得がいきました。
郷土、上五島にも、すごい宝物がある!=吉村氏
吉村氏 加藤博士によって初めて世の中に明らかにされた「五島うどんが全国のうどんの発祥」という説は、その小論が公表される数年前に博士から直接、聞いていました。そのとき「わが郷土、上五島にも、すごい宝があるもんだ」と小躍りして喜んだことを思い出します。
(つづく)→【 Vol.2 】遣唐使由来説に迫る