吉村氏 相河の里には、遣唐使船が風待ちをするために寄泊・繋留〈けいりゅう〉されていた「ともじり石」(編集者註:別名、艫綱石〈ともづないし〉)=写真=や、航海の安全を祈願したとされる「姫神社跡」=写真=などの遣唐使史跡が点在し、いずれも「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリー」として、文化庁が「日本遺産」に認定していますね。
犬塚 しかし、この上五島・船崎のルーツについて知っている人がだんだんと少なくなりました。だからこそ、何らかの形で後世に語り継いでおかなければと思うようになったんです。
吉村氏 本来は相河川付近にあった船崎の集落が、なぜ現在の場所に移らなければいけなかったのか。その歴史的背景も、いまだはっきりとは解明されていません。
犬塚 現在地に移ったのは江戸時代じゃないかって言われていたんだけど、当時、集落が所有していた大きな山を売って得た資金で、現在地に山神社を創建したという話も伝わっています。
吉村氏 新しい船崎地区に建てられた山神社については、おもしろい話があるんです。この神社には山の神様、大山積神〈おおやまづみのかみ〉と一緒に、中国人翁〈おきな〉1柱をお祀〈まつ〉りしているんですよ。この中国の翁をなぜ、お祀りしているのか、これもまた、歴史のミステリーです。
もう一つの塩釜神社は、塩づくりの神様、塩土老翁神〈しおつちのおじのかみ〉をお祀りしていますから、この地で、うどんづくりにも必要な塩づくりが行われてきた証〈あか〉しでもあるんですね。
犬塚 現在の船崎では、晩秋から春先にかけて山越しに北西の冷たく乾燥した風が吹き下ろします。今では、ほとんど見られなくなりましたけど、一昔前までは、あちこちで「ハタ」と呼ばれる干し具にかけたうどんを天日干しして乾燥させている光景を目にしていました。
吉村氏 ということは、現在の船崎地区は上五島の中で、うどんづくりに最も適した場所だったとも言えるのではないでしょうか。もともとあった相河の里よりも、うどんづくりの環境にはとても恵まれています。
犬塚 昭和の中頃のことでしょうか、親父に聞いた話では、船崎には当時、うどんを作る小屋が26軒あったらしく、この地区に住む女性が、島の各所に、うどんづくりを教えに行っていたそうです。
犬塚 804年の第16次派遣団の帰りの寄港地の相子田浦というのが、現在の青方湾につながる相河川の下流付近ということですね。
吉村氏 まさに、そうでしょうね。中国・明州の港から帰国の途に就いた、その第1船に真言宗の開祖である弘法大師空海が留学僧として、第2船には天台宗の開祖、伝教大師最澄が請益〈しょうやく〉僧として乗船していました。明州は現在の浙江省寧波〈ねいは〉市で、同じ浙江省温州市とは170kmの距離です。
空海は、五島にしばらく滞在し、密教をはじめ、医学・文学・土木など、大陸の最先端の文化や学問を島の人々に語り伝え、一方の最澄も、新上五島町で2番目に高い山王山〈さんのうざん〉で航海の安全を祈り、帰朝後、この山に比叡山延暦寺の山王権現を勧請〈かんじょう〉して、山王文化の種を蒔〈ま〉いたと言われています。
遣唐使の一行がこの島に上陸し、地元の人々とさまざまな交流をしたんだろうと想像するんですが、千数百年を経た現代でも、弘法大師を崇拝する風習が息づいていること自体、空海という人物がいかに偉大で、島の先人たちに、とても大きな影響を与えたことがうかがわれると思うんです。
吉村氏 その通りですね。島の人々は遣唐使一行を精一杯もてなし、一行も貧しい島民の暮らしに少しでもプラスになるようにと、当時の大陸の文化や情報を惜しげもなく語り伝えたのではないでしょうか。
犬塚 島で暮らす人々は今でも、本土から訪れる旅人を家族のように迎えますから、当時、島の中で繰り広げられた、ほのぼのとした光景が目に浮かぶようだ。
吉村氏 奈良時代から平安時代にかけての文書には、小麦に関する記述が数多く見られるんですが、私は、その遣唐使から島の人々にもたらされたものの中に、きっと索麺の技術が含まれていたであろう、と。
犬塚 うどんづくりの日本伝来と、その伝統の継承は、千数百年の時を経た今、歴史のロマンあふれる物語になろうとしている・・・
(つづく)→【 Vol.5 】郷土への誇りと希望